おかやま山陽高等学校 | Okayama Sanyo High School

活躍ブログ

あきらめない心を育み、夢をつかむ力を身につけた高校生活

漁府輝羽さん

Profile

ぎょふ こうは漁府 輝羽

2019年入学
普通科スポーツコース卒業

出身

岡山県倉敷市

進路

東北福祉大学
→福岡ソフトバンクホークス

趣味

釣り

釣るだけじゃなくてさばけます!

小学一年生の時、バットとボールに出会って以来、野球ひと筋。
183センチ、95キロの恵まれた体からくり出すスイングは鋭く、ヘッドスピードの速さが持ち味の長距離打者だ。おかやま山陽高校硬式野球部では堤尚彦監督のもと、「あきらめない心」と「感謝の姿勢」を育み、野球人としての礎を固めた。
高校卒業後は東北福祉大学で力をつけ、プロの世界へ。数々の試練も粘り強く、工夫を凝らして乗り越える姿勢は、おかやま山陽高校野球部がめざす“人間力を育む野球”を体現する。

野球との出会い
~ソフトボールで見つけた「夢中になる力」~

小学1年生の時、現在の実家に家族で引っ越しをしたときのこと。車の中から外を見ていたら、小学生がソフトボールをしているのが見えました。どういう感情だったかは覚えていないのですが、その時に「やってみたい」と強く思って。その後、すぐに両親にお願いしました。それまで特にテレビで野球を見ていたとか、家族が野球をしていたわけではなかったのですが、ソフトボールを見て「やってみたい」と思った記憶は今でもはっきり残っています。

その後すぐ、引っ越し先の地域にあった子ども会のソフトボールチームに入りました。グラウンドにはレフトにネットがあって、練習中はそのネットを打球で越すことしか考えていませんでした。ネットの先には、いつもお世話になっていた散髪屋さんがあり、ボールがネットを越えてお店の屋根に当たると、次に散髪に行ったときに「また当てたな~」って話題にしてもらえたり、ほめてもらえたりする。それがうれしくて、ずっとネット越えを狙っていました。思い返すと、小さいころから“飛ばすこと”しか考えてなかったですね。

小学5年生の時には倉敷ソフトボールクラブに声をかけてもらって、週2回、夜の練習に通うようになりました。その年の大会では代打でホームランを打ちましたが、1回戦で岡山選抜チームに敗退。けれど小学6年生の時には決勝に進み、1年前に負けた岡山選抜チームと再び対戦。当時はピッチャーもしていたのですが、接戦を制して全国大会進出を決めました。倉敷ソフトボールクラブの練習はけっこうハードでしたが、試合で勝つことはもちろん、それ以上にみんなで練習して、それが結果につながった時が本当にうれしかった。全国大会を決めた時も、自然と涙がこぼれました。
僕は3人兄弟の一番下で、元気いっぱいのやんちゃなタイプだったと思います。両親からも、二人の兄からもすごくかわいがってもらっていました。その頃は学校や練習から帰っても、家族に相手をしてもらいながら、シャトル打ちや新聞紙を丸めたボールでバッティングをする毎日。ソフトボールに熱中していました。

応援されるチームとの出会い
~おかやま山陽高校硬式野球部へ~

——中学進学時、地元の硬式チームからの誘いもあったが、「大好きな野球を毎日練習したい」「保育園時代からの幼なじみたちと野球がしたい」と、地元中学での部活動を選択。家族のサポートを受けながら自主練に励み、ピッチャーとしてもバッターとしてもスキルを磨いた。倉敷市の選抜チームにも選出されるようになった頃、将来の目標としてプロ野球選手を意識し始めたという。そして2017年、高校進学を控えていた中学3年生の夏、高校野球岡山県大会の決勝戦で、すごいチームと出会った。

その決勝戦【創志学園VSおかやま山陽高校戦】は再試合になり、おかやま山陽高校が初優勝を果たした試合の初日でした。実はおかやま山陽高校野球部のことはよく知らずに観戦に行っていたのですが、8回裏、6対1でスタートした山陽の攻撃で、創志学園に追いつき、逆転しました。その流れの中でスタンドの一般のお客さんが、「これ、逆転できるんじゃない!?」みたいな感じで、山陽を応援する雰囲気にどんどん変わっていったんです。その時、僕は1塁側ベンチの少し上に座っていたのですが、球場全体が立ち上がって山陽を応援しているような感じでした。こんなふうに応援されるチームを見たことがなくて、「このチーム、すごいな」と驚きました。その試合の印象がとても強く、「おかやま山陽で野球がしたい」と思うようになりました。

その後、堤監督から「うちに来ないか」と連絡をいただきました。初めて会った時、「ピッチャーとしてもバッターとしても二刀流で期待している」と言ってくださり、「お前はまだ磨く前の原石だから、うちに来てどんどん磨いてダイヤモンドになるぞ」とも声をかけてもらいました。その時の堤監督の雰囲気というか、オーラがすごくて「この人、すげーな」と圧倒され、「この人のもとで野球がしたい」と心が決まりましたね。あと「耳、動くか?」って言われたのも印象に残っています。「は!? 耳?」って思いましたけど、監督は実際に耳を動かして見せてくれて。それはつまり、「自分の身体をもっと自由自在に動かせるようになれ」という意味だったんですけど、強烈なインパクトがありました。

▲堤先生と漁府さんの2ショット撮影時、「普段通りお喋りしてください!」とお願いしたところすぐにフォームについての談義が始まったお二人。

▲終始真面目なトーンかと思えば急な堤先生の冗談ににっこりな漁府さん。

あの県大会の決勝戦で「こんなに応援されるチームがあるんだ」と驚いた中学生の自分でしたが、入部してから少しずつ、その理由がわかるようになりました。高校野球の多くは甲子園出場や勝利を目標に掲げますが、おかやま山陽高校硬式野球部は「生徒が将来どんな大人になり、社会にどう貢献するか」を目標にしている点がまず違います。堤先生が掲げる一番の理念は、「野球の普及を通して世界をよくしたい」という思い。その実現のために、チームは甲子園を目指すだけでなく、プレーや姿勢を通して多くの人に共感を広げ、野球の魅力を伝えることを大切にしています。地域貢献活動に力を入れていることもその一環です。

たとえば、野球部員は学校最寄りのJR鴨方駅を班に分かれて毎日掃除しています。また、僕が高校1年生の時に倉敷市で西日本豪雨が発生しました。その時、チームはちょうど夏の県大会中だったのですが、レギュラーの3年生も含めて部員全員で被災地へボランティアに行きました。春の選抜に出場したチームなので、当然、夏の大会では甲子園を狙っていましたし、周囲からの期待も大きかった。それでも大会中に練習よりボランティアを優先する姿勢こそが、応援していただけるチームにつながっていると感じます。僕自身もあの時、地域の方とお話をする中で「ありがとう」「がんばってよ」と声をかけてもらえたことは忘れられません。

おかやま山陽高校硬式野球部 部訓66カ条

——おかやま山陽高校の野球部には、堤先生が大切にしている想いを込めた言葉として、66の部訓がある。部員は日々、そのメッセージに励まされたり、気づかされたりしながら練習に励んでいる。

部訓はグラウンドのさまざまな場所に貼られていて、ふとした時に自然と目に入るようになっています。その貼られている場所にも、堤先生の意図があるんです。たとえば、グラウンドの出口には「無理、もうダメだと思ってから、もう少しだけ、今できることを少しだけやってみる」。トイレには「甲子園を愛するのではなく、野球を愛する」という言葉が貼ってありました。僕たちが3年生の時は、新型コロナウイルスの影響で甲子園大会が中止になりました。だからこそ「野球を愛する」という言葉は、何度も堤先生から言われましたし、つらい時期の支えになりました。

僕が特に好きなのは「ありがとうと言える人にもなりたいが、ありがとうと言われる人にはもっとなりたい」という言葉です。ボランティア活動などを通じて身をもって理解できるようになりましたし、今はプロ野球選手として、プレーでも姿勢でも「ありがとう」と思ってもらえるような人間でありたいと感じています。部員はこの66カ条を通して多くのモチベーションをもらいましたし、野球を通じてどのような大人にならなければならないかを、自然と学んでいたと思います。

▲おかやま山陽高校野球部の練習風景。

おかやま山陽高校の野球部は部員数が多く、Aチーム・Bチームに分かれていて、それぞれのチームで試合が組まれています。両チームのレギュラーが固定されているわけではないので、Bチームで活躍すればAチームへ上がれるなど、誰もが努力できる場を設けてもらえていましたし、全体でチームを盛り上げていける雰囲気がありました。

部員はみんな試合に出たいので、レギュラーを目指して切磋琢磨しますが、野球のプレーだけでなく、声を出すことや率先して動くことなど、取り組む姿勢も大切にしてもらっていました。野球がうまいだけでレギュラーになれるチームではありません。堤先生は「野球のうまい下手ではなく、最終的には人生で幸せになることが大事」とよく話してくれました。取り組む姿勢そのものが“野球”だと教えてもらいましたし、本気で野球に取り組む中で、どのように人生を豊かにしていくのかを教えてくださっていたのだと思います。

試練に負けない「あきらめない心」、感謝の気持ち

——高校入学後、イップスで投げられなくなったり、コロナ禍で思うように野球ができなかったりと、良い時ばかりではなかったという漁府さん。当時を振り返ると、「今だったらもうできないかもしれない」と思うほどのきつい練習も、堤監督や仲間の存在、家族の支えがあったからこそ乗り越えられた。3年間で、自分の持ち味である「力強いスイング」と「あきらめない心」が磨かれた。

高校入学当初はピッチャー志望だったのですが、ある時、ボールが思うように投げられなくなりました。そこからなんとか脱したいと思い、ネットに向かってボールを投げる“ネットスロー”を、ひとりでひたすら1年間続けました。あの時は本当につらかったですが、不思議とやめたいとは一度も思いませんでした。1年後、ようやく投げられるようになったとき、苦しい時期をやり抜くことの大切さ、そして「あきらめない気持ち」を学びました。結果的にはピッチャーとして復活はできませんでしたが、堤先生が打撃の方に可能性を見出してくださり、バッティングの方で開花させることができました。堤先生もあきらめず、僕に付き添ってくださいながら、粘り強くいろんな工夫を重ねてアドバイスを続けてくれたからこそ、今の自分があると思っています。

▲堤先生(左)と漁府さん。

高校時代にもうひとつ、やり抜いたことがあります。下半身を強化するために、片道20キロ、往復3時間弱の自転車通学を毎日続けたことです。近所に住むチームメイトと2人で励まし合いながら続けました。朝6時半に家を出るので、お弁当を作ってくれる母はもっと早く起きなければなりません。しかも、体を大きくするために野球部では「16時飯」という食トレがあるので、放課後の練習の合間に食べるお弁当も毎朝用意してもらっていました。帰宅後にはユニフォームの洗濯もしてくれていましたし、母は本当に大変だったと思います。当時を振り返って「一緒に部活をやっているような気持ちだった」と言われたことがあり、その言葉が今でも心に残っています。父は細い鉄パイプで約2キロのバットを作ってくれて、パワーをつけるためにその鉄パイプで素振りをしていました。家族には本当に感謝しかありません。

高校時代の練習は本当にきつかったですが、みんなで練習できることが楽しかったです。とくにコロナの時期、ようやくグラウンドに集まって練習できるようになった時は、心の底からうれしかった。「野球ができることは当たり前ではない」ことを実感しました。あの時の気持ちは一生忘れられません。野球ができない期間も、堤先生は部員にメッセージを送り続けてくださり、その言葉に僕たちは何度も励まされました。

苦労を乗り越えて念願のプロ野球へ

——がっちりとした体格と、くったくのない明るい笑顔からは、野球人生を順調に歩んできたように見える漁府さん。しかし実際には、高校時代に経験したドラフトの指名漏れや、大学時代の結果を出せない時期など、悔しい思いと向き合い続けてきたという。そんな時、決まって恩師の言葉に救われた。

高校時代のドラフトでは、正直「プロにいけるかもしれない」と思っていたこともあって、指名がなかった時はただ現実を受け止めきれませんでした。あの日、2020年10月26日は今でも忘れられません。その後、1週間ほどは家族とも話せず、自分の部屋にこもったり、学校でも気持ちが上がらないままでした。そんな中、堤先生はずっとLINEでメッセージを送ってくださり励ましてくれました。

その時、先生から届いた「神様は乗り越えられる人にしか試練を与えない」という言葉に、もう一度心が動きました。この言葉は今でも大切にしています。「やっぱりプロを目指したい」と先生に伝え、堤先生の母校で、数多くのプロ野球選手を輩出している東北福祉大学への進学を決めました。

▲アドバイスを受け入れ、スポンジのように吸収できるのは漁府さんの強みだと感じる。

大学時代、なかなか結果が出せない時期がありました。大学4年の春ごろは、試合にあまり出られていなくて。大学のリーグは短期決戦なので、ホームランよりもヒットで確実に点を取れる選手のほうが起用されやすいんです。その頃は僕もヒットを狙うバッティングに変えていましたが、反対に思うように打てずにいました。

そんなとき、社会人野球チーム・日本製紙石巻との練習試合の前日に、堤先生から電話がかかってきました。いろいろ話す中で、「明日、試合なんです」と言ったら、「お前の持ち味の強いスイングをして、ホームランだけ狙っていけ」と言われて。その言葉で何かがスッと抜けたように感じました。自分の軸に戻れたというか。そして翌日の試合、1アウト1・3塁のチャンスで、レフトへ先制のスリーラン。ホームランを打った瞬間、「これが自分だ」という感覚が戻りました。そこから再びホームランが打てるようになったことで、プロ野球のスカウトの方にも注目してもらえるようになりました。あの一本が、プロへの道を開いてくれたと思います。
あの電話でのアドバイスがなければ、ホームランは打てていなかったかもしれません。堤先生はたまたま電話をしてくれたのかもしれませんが、先生がよく言う「偶然はない、すべて必然」という言葉を思い出します。きっと、あのタイミングにも意味があったのだと思います。

大学4年間でも気持ちの持ち方や考え方で大きく成長できました。もし高校からプロに行っていたとしても、今のようにはできていなかったかもと思います。プロ入りが決まったとき、堤先生からは電話で何度も「よかったなー」と言ってもらいました。先生のうれしそうな声が、今でも耳に残っています。もちろん家族も大喜びで、母は少し泣いていたかもしれません。

▲岡山へ里帰りした際に母校の練習に加わっていた漁府さん。バッティング練習中、ネット裏では現役部員が16時飯を食べながら漁府さんの背中を真剣な眼差しで見学していた。

福岡ソフトバンクスホークスの一員として

——2025年秋、福岡ソフトバンクホークスの育成選手として初めてのシーズンを終えた漁府さん。プロとしての意識の変化や、技術面での課題を強く感じているという。強打者としての使命を果たすために、あきらめない心で自分の持ち味である力強いスイングを磨き続けている。

ひとつのことを粘り強くやり続けるとか、あきらめないっていう自分の強みは、おかやま山陽高校の野球部で培った力です。プロ1年目は、うまくいかないことのほうが多かったですけど、だからこそもう一歩粘るとか、もう一歩深く考えるとか、そういう意識で取り組めています。この前も堤先生にバッティングの動画を送ったら、「結果が出たことより、結果が出るように頑張ったところがいいんやで」ってメッセージをもらって。その言葉がすごく心に残りましたね。
プロに入ってからは、考え方もだいぶ変わりました。これまでは“一つひとつを一生懸命にやる”っていう感じだったんですけど、今は一つひとつのプレーに対して「なんでできたのか」「なんでできなかったのか」って考えるようになりました。すべてにクエスチョンをつけて、自分で答えを見つけていく。そうやってレベルアップのスピードを上げていきたいと思っています。失敗しても、そこには必ず学びがある。それを次につなげられるようになったのは、自分でも成長したなって感じています。
プロの世界では、1年を通して戦える状態をキープすることが求められます。だからこそ、自分の中に“核となるスイング”、不調のときでも戻れる基準をしっかり持つことが大事だと思っています。長距離打者として、ホームランで点を取ってチームに貢献したいし、一本のホームランで試合の流れを変えられるような選手になりたい。そこに自分の使命があると思っています。まずは、支配下選手として1日も早く登録されること。それが今の一番の目標です。

中学生に向けて
~野球が大好きな気持ちを深める~

——おかやま山陽高校で3年間を過ごした漁府さんに、学校全体の雰囲気について聞くと「様々なコースがあって、それぞれの得意や好きを磨ける学校」と答えてくれた。最後に野球で進学を考える中学生向けにメッセージをもらった。

僕はおかやま山陽高校のスポーツコースでした。このコースには、野球、サッカー、柔道など、本気でスポーツに打ち込む生徒が集まっていました。僕たちの学年は野球部だけで40人いて、20人ずつで2クラスに分かれてたんです。他の部活も全国を目指していたので、お互いに応援し合ったり、刺激を受けたり。「あの部活が表彰されたから、次は野球部も頑張ろう」みたいな感じで、いい意味で競い合っていましたね。

野球部は“野球が大好き”という気持ちを一番大切にしているチームです。野球が好きじゃないと、技術もなかなか伸びないと思うので、まずは“野球が大好き”って気持ちを持って取り組んでほしいです。うまいとか下手とか、結果だけじゃないというのが、堤先生の教えです。野球を通して人間的にレベルアップできるチームなので、堤先生のもとで思いきり頑張ってみてください。
(取材:2025年10月/撮影:2024年12月)

執筆:西田 奈々江

撮影:上田 亜美(内田伸一郎写真事務所)

企画・編集:藤若 典弘、兼安 真未(V.I.F., Inc.)

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