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2020年05月10日

偉人列伝

① 江戸時代〜明治時代にかけ、陽明学を学び、地域の民と共に共存して現在の岡山県、備中国の経済を立て直した山田方谷先生。大政奉還以後も江戸にのぼらず、地元岡山県で教育に身を捧げた。私達は山田方谷先生を学び、伝える使命がある。
真の日本の宝、備中聖人から。


② 日本体育の父、嘉納治五郎先生。
1860年兵庫県御影で生まれ、東京帝国大学の一期生。
1912年日本はスエーデン・ストックホルムで開催された夏季オリンピックに初参加した。選手は三島弥彦と金栗四三。嘉納は選手団の団長を勤めた。

そして、日本の体育教育の発展に尽力し、欧州の体育情勢を知り、辿り着いた1940年東京オリンピックの開催。しかし、日中戦争が勃発し、危ぶまれていた東京開催を再確認したIOC総会の帰路、1938年5月4日、客船氷川丸の中で帰らぬ人となった。日本は防波堤を失い、その2ヶ月後には東京五輪を返上。嘉納は1940年東京オリンピックの開催を信じて逝去。老体に鞭打ち、命を懸けて東京オリンピックの招致に挑んだ嘉納治五先生。
私達は何を学ぶ!


③ 1959年5月、西ドイツ・ミュンヘンに於いて第18回夏季オリンピックは東京に決定した。嘉納治五郎に仕えていた田畑政治は懇情の誘致に成功した。

田畑は水泳の指導者として1932ロサンゼルス、1936ベルリンオリンピックては大量のメダルを獲得させ、水泳NIPONの名をほしいままにしていた。
そして最高の状態で迎えるはずだった1940年東京オリンピック。しかし東京大会は返上。さらに世界大戦へと広がり大会は中止された。

その後、田畑は水泳の指導者から未来の東京オリンピックの招致に人生のすべてを賭けた。1940年の東京五輪の開催を信じて帰らぬ人となった嘉納の意思を受け継いだ。

そして、迎えた待望の1964年の東京オリンピック。日本は高度経済成長の好景気で復興を遂げ、競技でも16ケの金メダルを獲得。また全力で競技するすべての選手に賞賛の拍手を送るスポーツマンシップ。

そして、閉会式は世界がひとつになり、会場は大歓声に包まれ、平和の祭典を体現した眩いばかりの情景となった。

東京

④  1964年東京オリンピックのメインイベントは女子バレーボールだろう。
連戦連勝のチームを率いるのは、大松博文監督。大松は考えられない猛烈な練習で彼女たちを東洋の魔女に育てた。
俺についてこい!なせばなる!今やらねばいつできる!
私が大学1年生の1978年。岡山県井原市でバレーボールの講習会の際、突然この世を去った。奇しくも同じ言葉を残された平櫛田中先生の田中美術館が建つその場所で。
今やらねばいつできる! わしがやらねば、たれ(誰)がやる!

⑤ 1980年はソビエト連邦のモスクワで夏季五輪が開催された。
しかし、開催の数か月前、ソ連がアフガニスタンに侵攻したため米国は早々不参加を表明した。(最終的に約60か国が不参加)

1980年5月、日本スポーツ界に激震が走った。日本もアメリカに同調し不参加。当時、日体大レスリング部第2合宿所には、モスクワオリンピックでオリンピック2連覇を達成し、マットにキスをして引退するという青写真を描いていた不世出の天才レスラー高田裕司先輩と私は一緒に暮らしていた。
オリンピック2連覇の夢。それは、できなかったのではなく許されなかった。